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【インタビュー】渡辺謙×ギャレス・エドワーズ監督 ゴジラを再び目覚めさせた男たち

渡辺謙は劇中、「GODZILLA」という英語発音ではなく、はっきりと日本語で「ゴジラ」と言う。

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渡辺謙×ギャレス・エドワーズ監督『GODZILLA ゴジラ』/Photo:Naoki Kurozu
渡辺謙×ギャレス・エドワーズ監督『GODZILLA ゴジラ』/Photo:Naoki Kurozu 全 16 枚
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渡辺謙は劇中、「GODZILLA」という英語発音ではなく、はっきりと日本語で「ゴジラ」と言う。

予告編にも登場する、映画の中で初めてその存在が語られるシーンだ。「We call him…(我々<日本人>は“ヤツ”をそう呼ぶ…)」というセリフの流れから言っても、「GODZILLA」ではなく「ゴジラ」であるのは論理的だが、撮影の際は渡辺さんと製作陣の間でちょっとした“攻防”があった。

ギャレス・エドワーズ監督が明かす。

「脚本上は“GODZILLA”だね。あのシーンは、謙に任せていて、僕はカメラが寄っていくということだけ指示していたんだ。やってみたら、謙は『ゴジラ』と発音した。その場にいたプロデューサー陣は『それでいいの?』って顔をしたよ(笑)。僕はどうしようかと思って謙のところに行き、『どうかな? もう少しハイブリッドな感じで英語寄りに言ってみては?』と相談したんだ。でも彼は『いや、日本語で』と譲らなかった。『一応、英語バージョンも撮っておこうか…?』という相談にも、答えは『No』だった(笑)。いまでは、それは完璧な選択だったと感謝してるよ」。

日本人にとっては渡辺さんが、ゴジラのアイデンティティを守り抜いたエピソードのようにも感じられそうだが、むしろ、逆なのかもしれない。渡辺さんは意外な後日譚を嬉しそうに明かす。

「驚いたことに、アメリカでのプレミア上映で、アメリカ人のお客さんがあのセリフを言った瞬間に拍手をしてくれたんです」。

このシーンの時点でまだ、ゴジラは姿を見せていないにもかかわらず、である。渡辺さんが“GODZILLA”と“ゴジラ”を融合させた? いや、発音がどうであれ、元より世界は同じ、あの怪獣のアイデンティティを“共有”している――。ハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』はそのことを証明しているのだ。

「監督のゴジラへの愛。それに尽きます」。渡辺さんは本作への参加をそんな言葉で語る。

「前回、ハリウッドで作られた『GODZILLA』(ローランド・エメリッヒ監督)が、僕の中で引っかかってましたし、正直、懸念もありました。そもそも、なぜいまゴジラなのか? という思いもね。でもギャレスに会って、イメージを見せてもらい、彼の中にあるゴジラ像やフィロソフィについて話をして、これはいまだからやる価値があるという感触を抱きました。その後も紆余曲折はあったし、彼も眠れない日々があったと思う。でも最終的には彼が持っているゴジラへの愛、思いが作品の骨となったと思います」。

エドワーズ監督は、そんな渡辺さんの言葉に「アリガトウ」とはにかみ、日本での公開を前にした偽らざる思いを口にする。

「日本での公開にプレッシャーを感じてないと言えば嘘になります。僕はゴジラの“代理母”になったような気持ち(笑)。日本のみなさんからお預かりしたゴジラをお返しするような…。幸いなことに世界中でのヒットで経済的な意味での重圧からは解放されたけど、それでもどこか一国、どうしてもヒットさせたい国を選べと言われたら、それは間違いなく日本だからね。みなさんに“真のゴジラ”として受け入れてもらうのが何よりの願いです」。

日本で生まれたゴジラがハリウッドで映画化され、そこに日本を代表して渡辺謙が出演する…つい、そんな構図を思い描いてしまうが、渡辺さんはそんなことに全く頓着しない。

「『ゴジラがハリウッドで…』という図式そのものに興味がないというか、今回の映画は単体として成立していると思うんですよね。僕は前作の『許されざる者』という映画を、日本版でリメイクという形ではあるけれど、全く別の作品として成立させられたという自信を持っているんです。それと同じで、今回の映画も『ゴジラ』だけど、いままでとは違うものだし、かと言って全くトンチンカンなものを作ったわけでもない。ひとつの『ゴジラ』映画として、いままで観たことがない人も長年のファンも楽しめると思う。だって、ここ10年近く新作の『ゴジラ』がなかったわけで、シリーズを全く観たことがない人も世界中で多いはず。それでもこれだけヒットしたのは、ただ“ゴジラ”だからというわけではなく、心わき立つ何かに反応したからでしょう。僕が何かを背負ったり、旗を振ってという感覚はなかったですね」。

一方で、映画の中で描かれる日本、原爆や原発など歴史的であると同時にいまなお日本人にとってタイムリーかつ繊細な問題についての描写に関しては「ある種の責任と覚悟があった」と明かす。

「それはゴジラが持つ大きなテーマでもあります。そこに関しては自分の中で『やるべきだ』と思ったときから、きちんとエンタテインメントしながらも、(テーマを)俎上に乗せていくという共同作業をしていけばいいと考えていました。僕が演じたのは芹沢博士という科学者。個人的に原爆や原発はダメだとか言うだけじゃなく、(科学の)内側にいる人間が苦悩していくという部分に興味を惹かれました。いま、現実社会で生きている科学者も、もしかしたら自分の技術が世界を破滅させる可能性を持っているのでは? という怖れや苦悩を抱きながら研究を進め、力を注いでいるかもしれないということを感じさせてくれる役です。ゴジラによって人間の限界と自然のあるべき姿というものを知らされるというのが面白いし、それこそがいま、我々が足を止めて見上げるべき何かなんだと思うんですよね」。

エドワーズ監督によると、渡辺さんは自らが背負った責任を全うすべく、日本の描写の部分について脚本段階から関わり「普通はありえないことだけど、自分の撮影が終わった後も、自主的に無償でスタジオに何度も足を運び、細かい部分までチェックや指摘をしてくれた」という。

エドワーズ監督はゴジラを「ラストサムライ」という言葉で表現する。「種の最後の生き残りであり、現代の社会とは関わりを持とうとも思ってない。離れたところで暮らし、それに満足していたけど、何かの拍子で関わりを持たざるを得なくなった――そんな孤独を愛する戦士なんだ」。それはどこか、日本の任侠映画のようだし、利のためでなく、責任と誇りのために最後の最後まで本作に携わった渡辺さんの姿とも重なる気がする。

ちなみに、今回のゴジラは体長108メートル。過去のシリーズと比べても飛びぬけてデカい! 渡辺さんもこの、これまでのキャリア最大の“共演者”について「最初はサイズを知らず、『え? この橋よりも上に出るの?』と驚いた」という。エドワーズ監督はその意図をこう説明する。

「なぜ人々は、巨大な怪獣が出てくる映画を観に来るのか? それは何万年も昔の原始時代から、人間はずっと他の動物に襲われる恐怖と隣り合わせで生きてきて、その恐怖から解放されたいまでも我々のDNAには、『いつか何か巨大な生物に襲われるのでは?』という恐怖が植えつけられているからだと思うんです。だから、人類が100メートルを超える高さの建物で暮らしているなら、脅威もまたそれと同等の高さでないといけないと思いました」。

ゴジラはフルCGで製作されているため、もちろん実際の現場には存在しない。だが、渡辺さんは目に見えないゴジラの大きな背中を想像しながら“希望”を感じた。

「セットにガレキが積み上げられ、背景として荒廃した街が映ってる。その中でゴジラの背中を見て『僕らはもう一度、立ち上がります』という強い思いが沸いてきたんです。60年、ゴジラはずっと破壊を続けてきたのに(笑)、それでも愛され、求め続けられる理由がそこにあるんだなと肌で実感しました」。

そして、観客の立場で改めて完成した映画を観ての思いをこんな言葉で表現する。

「熱線を吐く前に、ゴジラの背中が光ると、それだけでゾクゾクするでしょ(笑)? あの咆哮と光に“男の子”に戻された気がしました」。

そう語る表情もまさしく少年そのものだった。

《シネマカフェ編集部》

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