【MOVIEブログ】カルロス・レイガダス監督と『闇のあとの光』+『ハポン』
6月7日の土曜日、現在公開中の『闇のあとの光』(写真)の上映後トークショーに松江哲明監督と登壇し、カルロス・レイガダス監督について、改めて深く考えてみた…
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レイガダス作品との出会いについては、『闇のあとの光』のパンフレットに寄稿したので、興味がある人には読んでもらえたら嬉しいのだけど(公式HPでも読める)、作品内容についてもっと掘り下げて考えてみたいという気持ちがとても強い。自分は批評家ではないけれど、レイガダスを(たぶん)日本で最初に好きになった人間のひとりとして、その作品に深く関わっていたいと思う。
『ハポン』(02)の長編デビュー以来、『バトル・イン・ヘヴン』(05)と『静かな光』(07)の3作で、カンヌで最も注目される作家のひとりとして地位を確立したレイガダスは、『闇のあとの光』(12)で4度目の衝撃を世界に与えた。ガラリと作風を変えたように見えたけれども、レイガダス特有の挑発的なスタンスはむしろ先鋭化し、そして実は過去作との共通点も伺えることが、徐々に見えてきた。
レイガダスに対して、今思うのは、彼は恐怖に突き動かされている作家なのではないか、ということ。『ハポン』では赦しと犠牲、『バトル・イン・ヘヴン』では贖罪、そして『静かな光』では究極の赦しである奇跡、を描き、いずれの作品にも「罪を犯すことへの恐怖」が底流している。
「恐怖」があるからこそ、「光」を求めるのであり、それが近作のタイトルに連続して反映されている。そして、デビューからの3作品で(罪を犯す)恐怖からの救いを描いてきたのに対し、『闇のあとの光』は、より根源的な恐怖そのものを描いている。ゆえに、過去3作のようなリニアなストーリーラインがない。レイガダス本人が幼いころに感じた恐怖という概念を、夢のように綴ったのが『闇のあとの光』であり、夢であるが故に時制は混沌となり、ストーリーには一貫性がなく、それが難解さに繋がる印象を与える。しかし、夢であるが故に、とても美しい。
罪や死や暴力への恐怖が純化された形で現れたのが『闇のあとの光』である、というのが僕の解釈で、「恐怖」をキーワードにすると、彼の作品世界が解説できる気になることが楽しい。例えば、セックスもレイガダスにとっては恐怖なのではないか。セックスそのものよりも、セックスが出来なくなることが恐怖なのではないか。
過去にも、老年のセックスや、行為の後に縮小していくペニスを挑発的なリアリズムで描き、観る者の度肝を抜いたが、『闇のあとの光』に登場する性交シーンは、悪夢的でもあり、淫夢的でもある。まともなセックスができない恐怖であると見るのは深読みし過ぎかもしれないけれど、そのカップルの間にセックスが失われつつあることが語られるに至り、さほど的外れではないかもしれないとも思える。
こうやって見てくると、巨木が切り倒されるシーンさえもが、去勢への恐怖のメタファーでないかと見えてしまうが…。
レイガダスの作品の解釈は、観る者に完全に委ねられている。監督本人の口から「正解」を聞くことは絶対にないだろう。逆に言えば、どんな解釈をしても許される。もちろん、無理に解釈しようとしないで、ただひたすら映像世界に耽ることだって「正解」だ。
口当たりの良い映画がずらりと並ぶ現在の映画興行の中で、芸術的異物とも呼ぶべき『闇のあとの光』が一般公開されている価値ははかり知れない。とにかく、ひとりでも多くの人に見てもらいたいし、映画という表現芸術の奥深さを知ってもらいたいと、切に願うばかり。
そして、全てがここから始まった! と言える、レイガダス監督のデビュー作『ハポン』が、1回だけ特別上映されることが決まった!
6月22日(日)の18時40分から、1回だけの特別上映。2009年の東京国際映画祭の特集以来の上映で、当時見逃した人、あるいは、今回『闇のあとの光』を見てレイガダスのルーツに触れたい人、そして、レイガダスなんて知らないけれど、とにかく凄い作品が見たい人、ユーロスペースに集合しましょう。
滅多に出来ない映像体験を約束します。本当に。
《矢田部吉彦》
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