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【インタビュー】斎藤工、“見られたくない部分”をさらけ出す「原作者や監督の覚悟が伝われば」

「ソラニン」や「おやすみプンプン」で知られる人気漫画家・浅野いにおが己の業(ごう)をさらけ出したと評される「零落」。存在意義を見失った漫画家の彷徨を生々しく描いた本作が、竹中直人監督・斎藤工主演で実写映画化された。

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斎藤工『零落』/photo:You Ishii
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「ソラニン」や「おやすみプンプン」で知られる人気漫画家・浅野いにおが己の業(ごう)をさらけ出したと評される「零落」。存在意義を見失った漫画家の彷徨を生々しく描いた本作が、竹中直人監督・斎藤工主演で実写映画化された。

売れるとは何か? 売れればいいのか? 自分はどうしたら幸福でいられるのか? 才能を持ってしまったがゆえに奈落に堕ちていく主人公・深澤を演じた斎藤さんは、本作で己の内臓と向き合うような体験をしたという。『フェイブルマンズ』や『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』といった最新映画の話題もはさみつつ、作り手の業について語っていただいた。

「零落」は読者自身が自分に向き合わされる作品


――斎藤工さんは、浅野いにお先生の作品が世に与えた影響をどう見ていますか?

自分は同世代であり、進行形で常に浅野先生に衝撃を受けてきました。どんな映画よりも映画を感じるところすらあります。

かつて竹中直人さんが監督された『無能の人』を観たときに、竹中さんと原作者のつげ義春先生の親和性をすごく感じました。そして今回、『零落』を竹中さんが監督されると聞いて、日本の漫画のカルチャーが積み重ねてきたものを改めて思いました。

つげ義春先生、水木しげる先生(※つげさんは水木さんのアシスタントだった)、そして浅野先生。つげ先生の「貧困旅行記」に代表されるように、貧困や暗部、何かしらが欠落していることにある種の美しさを見出していく文化が、この国にはそもそもあるんじゃないかと思っています。そこに迫りうる映画や漫画はいままでにも数多くありましたが、浅野先生はそこにより写実性を与えたように考えています。実際にロケハンして写真から背景に起こす描き方をされる方だから、漫画の持つリアリティが現実とシンクロして強いインパクトを受けるんですよね。と同時に、いまお話ししたように浅野先生はつげさんや様々な方の影響を受けて、ある種現代版に翻訳しているとも感じました。

そして「零落」においては、スティーヴン・スピルバーグ監督ですら『フェイブルマンズ』で自伝を映画化したように、自分の赤裸々な部分をさらけ出している。「ここを表現しないと次にいけない」というクリエイターの性(さが)――「これは人に受けるだろう」がもう通用しないと気づいたとき、壁にぶち当たった表現者たちがもう一回自分の中を掘り出し、自らの内臓と向き合う。それがこの「零落」であり、初読ではっとしたのはその部分でした。

僕はどうしても「いかに取り繕うか」という思考に陥りがちなんです。衣装を着せてもらい、メイクをしてもらって場所を整えてもらって光を当ててもらったうえでの自分ですが、その逆に真実があるといいますか…自分が向き合わないといけないのに目を背けてしまっていた部分に、浅野先生は「零落」で斬り込んだと感じて。

それはきっと僕だけじゃなく、多くの読者がご自身の生業と状態とどこか目を背けて先延ばしにしていた自分事に向き合わされる瞬間が、この作品だったんだと思います。確定申告みたいなタイミングといいますか(笑)。だからこそ、そうした浅野先生や竹中さんの覚悟が出合った方々に伝われば、実写化した意味になるのかなと思います。

――浅野先生という作り手が自身の内臓と向き合った作品を実写化し、主人公を体現するなかで工さんもまたご自身の深淵と対峙したかと思いますが、そうした作品における主観と客観、「役に入り込む」と「作品を俯瞰する」のバランスは非常に難しかったのではないでしょうか。

そうですね。主観と俯瞰の温度感がつながってくるとこんなに大変なんだ…と感じました。冷めているというとちょっと違うかもしれませんが、僕は普段、この2つのアングルをスイッチするみたいに切り替えてガス抜きをしていたんだと気づかされました。いまやっている連ドラもそうなのですが、作品に入っているときって主観だけでは決してないんですよね。連ドラは数字や納期に追われてしまっているから、自分が1ピースとして何を必要とされているかを明確にしないと間に合わない。つまり俯瞰の意識が強く働いているわけです。

でも『零落』はそうした染み付いてしまった方法論が全く通用しないというか、持ち込んではいけない現場でした。垂れ流してしまわないといけないしんどさといいますか…。ただ、僕自身が「見られたくない・見せたくない部分を表現者が表現したとき、その作品に近づける」という観客としての実体験があるので、ある種の赤裸々さや、覚悟すら持っちゃいけない垂れ流し感が必要だとは理解していました。どこか『トゥルーマン・ショー』的でもありましたね。

だから正直、心の底からみんなに観てほしいかというとそうじゃない側面もあるんです。でも、そこにいかなければきっと『零落』じゃない。

――非常によくわかります。先ほどお話しされていた『フェイブルマンズ』でも、多幸感にあふれた映画ながら作り手の業(ごう)も克明に描かれていました。

その部分が見えない作品って世の中にあふれているかと思いますが、観ている瞬間は楽しくて娯楽として成立しているけど、自分の中に残るか残らないかといったらやっぱり残らないんですよね。残る部分は意外とそうしたネガティブな部分というか、日向じゃないもののほうが地続きの何かとして自分の中に蓄積されているように思います。


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《text:SYO/photo:You Ishii》

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