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【インタビュー・前編】バズ・ラーマンが語る、「ゲットダウン」に込めたヒップホップへのリスペクト

シネマカフェでは、「ゲット・ダウン」の撮影が行われたクイーンズのスタジオにて、製作総指揮を務めたバズ・ラーマンをはじめとするスタッフ、キャストにスペシャルインタビューを実施。

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ジャスティス・スミス、バズ・ラーマン(C)Netflix. All Rights Reserved.
ジャスティス・スミス、バズ・ラーマン(C)Netflix. All Rights Reserved. 全 12 枚
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「田舎町でニューヨークの方を見つめていたあの15歳の頃――何年もの間、ニューヨークこそが優れたクリエイティブな場所だと思っていた。そんなあるとき、ここにいるふたりの男が、若いときにどうやってこの最も純粋かつ独創的な表現方法を思いついたのだろう、という疑問が湧いてきたんだ」。

1977年を舞台に、ヒップホップの黎明期を描いたNetflixオリジナルドラマ「ゲット・ダウン」。シネマカフェでは、「ゲット・ダウン」の撮影が行われたクイーンズのスタジオにて、製作総指揮を務めたバズ・ラーマンをはじめとするスタッフ、キャストにスペシャルインタビューを実施。歴史が生まれる瞬間を描こうと情熱を注いだ彼らの言葉に、現地ニューヨークにて耳を傾けた。

製作総指揮を務めるバズ・ラーマンは、その日インタビューに同席した目の前にいる“ふたりの男”に尊敬の眼差しを向ける。1977年のニューヨークで、ヒップホップという新たな音楽があげた産声をまさに聞いた人物であり、その発展に貢献をしてきたふたりの人物だ。ひとりは、クール・ハーク、アフリカ・バンバータと並び、ヒップホップ黎明期における3人の重要なDJ、グランドマスター・フラッシュ。もうひとりは、当時のヒップホップシーンの目撃者であると同時に、ヒップホップという音楽を批評的なフィールドで初めて論じた、ネルソン・ジョージである。フラッシュはアソシエートプロデューサーとして本作に関わり、ネルソンはスーパーバイジング・プロデューサーとして参加。同年代のふたりは、1977年という時代を生きた人物として、本作のリアリティーに大きく寄与している。

「ある日、バズが俺のところにやって来て、『僕はあなたのレコードの成功やスター性などには興味がありません。成功してからの時代ではなく、これが内在していた時代のことが知りたいのです』と言ったんだ。俺が『なぜだ?』と尋ねると、彼は『これまで誰も試みたことがないから、それを敢えてやってみたい』と」。今年で58歳とは思えないエネルギッシュな語りに圧倒されながら、フラッシュはバズとの制作当初のことを語り始める。全身を黒と白で統一したスタイル、靴はもちろん、シャオリン・ファンタスティックをはじめとする劇中の登場人物たちと同様、プーマだ。そのときにずしんと足を踏みならしながら、巨大な体躯から発せられる彼の力強い言葉にただ耳を傾ける。「長い間、こういった作品が出来て欲しいと思っていた。どういうわけか、この70年代の物語を世界に示す作品がこれまでなかったんだ。ブロンクスという町が、いまとなっては巨大なビジネスとなっているものを創造したという事実を伝えることさ。そして、いまの全てのヒップホッパーたちに『君たちがヒップホッパーとしてやっていることをこれからも続けてくれ。でも時間があるときに座ってこれを見てくれ。そしてどう思ったかを教えてくれ』と言うことさ」。

1977年に何が起こったのか――『サタデー・ナイト・フィーバー』の公開とともにディスコ・ミュージックは全盛を迎え、世界が『スター・ウォーズ/新たなる希望』に熱狂した年。また、音楽ファンであるならセックス・ピストルズが「勝手にしやがれ(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)」をリリースした、パンク・ミュージックにおける象徴的な年としても記憶しているかもしれない。本作では、ヒップホップとディスコという当時のブラックミュージックが辿ることになる分かれ道が、エゼキエルとマリーンというふたりの主人公によって描かれていく。まずは、バズをはじめ、ネルソン、フラッシュら3人が、1977年という年について語り始める。


バズ:77年は特に並外れた年だった。フラッシュは75年も74年もこういうことをやっていたけれど、77年はまさに中核の年で、エルビスが死んだ年でもある。

ネルソン: ニューヨーク市長選挙もね。

バズ:もちろん。ニューヨーク市は破産しかけていたし、悲しい出来事もたくさん起こった。もしそこで起こっていた全てのことに目を向けても、77年という年を語るのは不可能なくらいだ。あまりに様々なことが何層にも重なって起こっていたからね。ディスコが全盛で、レコード業界にとって史上最高の年さ。音楽の売り上げは20億ドル。映画は15億ドル。スポーツは5億ドルしかなかった。それくらい音楽ビジネスは大きかったんだ。その一方で、ビッグなバンドが出てきた。

ネルソン:「バッドカンパニー」とか、「フォリナー」とか「カンサス」とか…。

バズ:それと同時に、パンク・ムーブメントがあり、世界が変わりつつあった。この年、ヒップホップはすでに十分に生まれていたんだけど、まだ多くの人々には知られていなかった。ヒップホップと呼ばれるようになったのは3年後だ。ブロンクスという小さな町では、全く独創的なものが起こり始めていた。この2人は、あの頃実際にそこにいたんだ。危険な時代だった。ストリートは荒れていた。暴力がはびこっていた。でも当時若者だった彼らは、ネガティブなものは一切感じていなかったと思うよ。フラッシュ、そうだろ?

フラッシュ:正直なところ、80年代の一部のジャーナリストたちが、この場所をいつも火事が起こっていた危険な場所として型にはめてしまったと思うよ。でも、俺たちにとってブロンクスは真っ白なパレットだった。音楽の部分ではね。


1970年代、当時のニューヨークは経済的な破綻を迎え、街の治安は悪化の一途を辿っていた。ブロンクスでは、無人となってしまったアパートの所有者が保険金目当てにギャングに放火させ、至るところから炎が立ち昇っていた。本作では、当時のニュースや記録映像の数多くが本編中に幾重にも差し込まれており、街の荒廃した様子がアリティーのある映像とともに示される。

劇中において、テクスチャーの異なる様々な映像をコラージュ的に展開させていく手法は、これまでのバズ・ラーマンの作品にも多く見られる表現方法であった。『ロミオ+ジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』における、その独自の感性によって繰り広げられる大胆で華美な意匠、耽美なアレンジメントの数々に感じられる斬新なミクスチャー感覚は、サンプリング主体の音楽であるヒップホップとフィーリングとして通じるものがある。フィルモグラフィー的に前作にあたる『華麗なるギャツビー』においては、1920代=ジャズエイジを舞台にしたフィッツジェラルドの古典において、ヒップホップ界の“キング”であるJAY-Zをクレジットに配し、華やかな当時の時代性に現代的な解釈を織り交ぜ、豪華絢爛な3D映像で仕上げるという、まさにバズ・ラーマン節ここに極まれりといった作風が話題を集めた。

本作では製作総指揮として全体のクリエイティブの手綱を引く立場のバズだが、一作目では実際にメガホンを取っている。一話目を撮り終えたときのことをバズは回想する。「第一話を仕上げたときに、フラッシュがどう思うかとても緊張したんだ。そしたら彼は『ああ! バズ! 君はDJだね!』と言ったんだよ。たぶん気に入ってくれたということだと思う」。さらに、今回のインタビューに応じてくれたキャストのひとり、本作で主人公たちのクルーのひとりを演じたジェイデン・スミスも、バズの手腕への賛辞を送る。「この作品全体の繋がり方は、ストーリーから何から全てシームレスで、フラッシュが言うように、本当にバズはDJだと思うよ。全ての映像が一体になっていて、特にオリジナルのフッテージの映像の荒々しさが、新しく撮影した映像に移り変わるつなぎ目とか、そういったもの全て僕は大好きなんだ。本当に素晴らしいと思うし、僕の目には全く非の打ち所のないものに映るよ」。

バズ・ラーマンがなぜヒップホップ? という疑問を抱いた映画ファンがいたとするならば、まさにフラッシュやジェイデンが送る賛辞の言葉とバズ自身の言葉が、見事な回答を与えてくれる。バズ・ラーマン映画における独自のミックス感覚は、まさしくヒップホップの影響から培われたということが、本作におけるヒップホップへの愛として表現されている。「僕はこれまでの人生でもずっとコラージュ・アーティストだったんだ。ブロンクスで生まれたものが、僕に作品の作り方を教えてくれたんだよ。こういう部分とこういう部分を併せて、新しいものを作り上げる。大人になってからのクリエイティブな人生全てに大きな影響を与えてもらったという気がしている」。

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《シネマカフェ編集部》

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