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『ドライブ・マイ・カー』の“車”と“肉体”とのつながり、「老い」を受け入れるということ

カンヌ映画祭の脚本賞や日本アカデミーの作品賞など、国内外で数々の賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』。米アカデミー賞の脚色賞など4部門でノミネートもされており、注目が高まっている。

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『ドライブ・マイ ・カー』 (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
『ドライブ・マイ ・カー』 (C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会 全 14 枚
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《text:西森路代》

カンヌ映画祭の脚本賞や日本アカデミーの作品賞など、国内外で数々の賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』。米アカデミー賞の脚色賞など4部門でノミネートもされており、注目が高まっている。

筆者は、この映画について、何度も文章を書いたり、また監督と対談する機会にも恵まれたりして、語るべきことは語りつくしたと思っていた。しかし、初めて見てから半年以上経った今になっても、こういう見方もできるのではないか、ということがまだ出てくる。

本作は、俳優でもあり演出家でもある家福悠介(西島秀俊)の妻の音(霧島れいか)が急死したところから始まる。数年後、家福は国際演劇祭の仕事で広島に向かい、渡利みさき(三浦透子)という運転手と出会う。彼がそこで手掛ける舞台「ワーニャ伯父さん」のオーディションには、生前、妻が関係を持っていた俳優の高槻耕史(岡田将生)が現れるのだった。

当初はこの映画のテーマは、主人公の家福が、音を失ったあと、どのように自分の内面と向き合い、再生していくかを描いたものだと思っていた。家福は、再生することを最短距離で探すのではなく、毎日、車の中で音が吹き込んだテープに対して、何度も何度も同じセリフを繰り返したり、みさきの運転で、毎日、同じ稽古場に通い、そこで演出をしたりする中でひとつの呼吸を掴んだりする中で徐々に再生に向かうのである。

対して、何をしても器用で、瞬発力も感受性もあり、何かをすぐに把握できてしまう高槻。彼は、家福のように反覆をすることを受け付けず、何度も何度も単調なトーンでセリフを読み込む稽古に疑問を持ち、直情的すぎるばかりに負の感情も抑えきれないという面で、家福と対照的である。単調だけれども「生」を選ぶ家福と、激しさが「死」と隣り合わせのようになっている高槻のコントラストが際立っていた。

しかし、今になって映画について考えていると、家福には、「老い」ということも重ねられているように感じられる。それは、彼が自動車事故にあい、精密検査を受けたことで緑内障を患っていることがわかるところからもうかがえる。緑内障は高齢者に多い目の病気で、点眼薬を毎日使えば、進行を抑えることができる。ここでも、単調でも同じことを繰り返すというキーワードが出てくるのだ。

その後も家福は数年の間は愛車のサーブの運転を続けていたが、広島での演劇の仕事をきっかけにサーブの後部席に乗ることになり、みさきに運転を任せることになる(みさきも、毎日、淡々と正確な運転を繰り返す人物である)。やがて家福は、音のことを巡って高槻に感情を揺るがされ、みさきと対話をしたいと思い、助手席に座り、そして最後にはサーブを手放すのだった。

タイトルに『ドライブ・マイ・カー』とついているのに、その車が家福のものですらなくなるのは、どういうことなのかと思ったが、車をドライブするということは、主体性を意味していると考えれば、家福は、徐々に主体性というものを受け渡し、そしてそこからいなくなってしまうとも考えられる。

そのとき、同じ入れ物であるという意味で、車は肉体に似ている。この映画が「老い」をテーマのひとつにしているとすれば、人間の体も、日々、乗りこなし、「老い」とともに、誰かに委ねたり、手放さないといけないものなのではないか。手放すその日を迎えるまでは、衰え行く体とつきあうと言う意味においても、愛するものを失ったりして、思うように動かせなくなっていく心と向き合い、ときには悲しみやままならなさを受け入れていくという意味においても、淡々と日々のメンテナンスをしていかなければならない。

「老い」を受け止めるということは、自分に過度な自信があったり、過度に力があると思っていればいるほど、耐えがたく受け入れがたいことだろう。人によっては、「老いる」ということにつきまとう「弱さ」を受け入れられないかもしれない。その受け入れがたさと、人に「弱さ」をさらけ出したくないという思いから、力を誇示しようとして暴力的になってしまう可能性だってある。それは、戦争にだってつながりかねないことでもある。

本作は、冒頭でも書いた通り、28日に発表となるアメリカのアカデミー賞で4部門でノミネートされている。同賞は、年々、ラブ・ストーリーであろうが、コメディであろうが、スペクタクルであろうが、文芸作品であろうが、表層のストーリーの巧みさにうならされるだけでなく、現在、世の中に横たわっている問題点に重ね合わせてくれるような作品が数多くノミネートされているように思う。この映画のそうしたところが日本初の作品賞、脚色賞、監督賞、国際長編映画賞にノミネートされた所以ではないだろうか。

《text:西森路代》

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