2022年の夏、ある農村の夫婦の物語が中国の若者たちの心を掴んだ。スター不在、低予算の映画『小さき麦の花』が異例のヒットを記録し、レビューサイト「豆瓣(ドウバン)」では平均8.5(10点満点)という高い評価を獲得した。アクションや特撮が売りの愛国ヒーローものやコメディがヒットの定石になっていた中国映画市場に起きた「奇跡」だ。
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舞台は2011年、中国北西部に位置する農村。貧しい農民の有鉄(ヨウティエ)は馬(マー)家の四男坊で、三男の家で暮らしている。三男にとっては、中年になっても独り者の弟に家にいられては体裁が悪い。そこで、体に障がいがあり、やはり家族から厄介者扱いされている貴英(クイイン)との見合いを持ちかける。ヨウティエとクイインはこうして出会い、夫婦となる。
寡黙で愚直なヨウティエと、子供が産めない体で、すぐに失禁してしまうクイイン。あえて言い方を選ばなければ、貧しい農村の中でも底辺の暮らしを強いられた夫婦だ。そんな2人が感情を育み、暮らしを紡いでいく姿を、やはり中国北西部の農村で育ったリー・ルイジュン監督が丁寧に映し出す。
殺伐とした人間関係に疲れた? 若者たちが支持
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筆者の知人である中国在住の30代女性は、この映画の夫婦が「羨ましい」と言った。「離婚する夫婦が増え、恋人同士でもDVが問題になる今の世の中で、互いを思い合うあの2人の関係は奇跡のよう」だというのだ。また、家族から疎外される2人の姿にも共感を覚えたとか。「出来のいい子は何をしても許し、何でも与えるけど、そうでなければ容赦なく叱責する親もいる。映画の中の薄情な身内の描写もリアルで、希薄になった家族関係をよく表していると思う。最近は春節の帰省も昔ほど楽しみではない」と語る口が止まらない。
別の30代の知人は、次のようにも語る。「大切に農作物を育て、自分たちで家を建てる。農村部の生活とはこういうものなのかと新鮮だった。私たち世代には、経験がないから」。
もちろん、一部にはネガティブな意見もある。沿海部の都市で生まれ育った知人は、「あれが2011年の中国? 1911年かと思った。今の中国にあんな貧しいところはない」と一蹴。「いかにも外国人が好きそうな中国映画だと思って」見ていないという。中国政府が宣言した「貧困ゼロ」を信じ、映画で描かれる貧困はフェイクだと思っている人がいるのもまた現実である。
このように様々な感想がSNSなどで拡散。7月8日に中国で封切られ、8月上旬にはネットでの配信もスタートしたが、そこからさらに口コミで話題となり、異例の客足の「V字回復」現象が起きたのだ。
9月上旬に『小さき麦の花』は興行収入1億元(約19億円)を突破。コロナ禍で商業映画の多くが公開を控えていたという特殊な事情もあるが、この異例のヒットは「奇跡」と呼ばれた。それだけでなく、映画を配信で見ることが定着している中国で、名もなき農民が主人公の作品が、日本以上に市場で冷遇されているアート系映画を劇場で味わうという体験を促した意義も大きい。
憶測を呼んだ突然の上映打ち切り
しかしこの映画は、予想外の展開を迎える。9月下旬、突然上映が打ち切りになったのだ。例年、10月1日の建国記念日の連休の時期は愛国的な作品が優先的に上映されるため、その入れ替えのためだとも考えられるが、配信サイトからも削除されたのは不可解だ。10月の中国共産党大会を前に、克服したはずの貧困の描写や、善行を積んでも報われない農民の姿など、政府のキャンペーンと相容れない内容を含んでいることが当局にとって不都合だったのでは……等々、様々な憶測を呼んだ。しかし、劇場公開されているということは検閲自体は一度クリアしているわけで、どれも推測の域を出ない。
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こうした状況に配慮して、予定されていた日本のメディアのリー監督へのインタビュー取材も中止になった。配給会社ムヴィオラの武井みゆき代表は「制作サイドも海外セールスも神経質になっていて、今、監督が海外メディアや海外の配給会社に何か語るのは控えたほうがいいということになりました」と理由を説明する。「現在に至るまで、配信も再開されておらず、上映中止のはっきりとした理由も分からないまま」だという。
演技の素人&ベテラン俳優の奇跡のケミストリー
こうした社会現象に目が行きがちだが、稀に見るラブストーリーであることも強調しておきたい。愛を語る言葉はなくとも、互いを想い合う2人の姿は鑑賞後しばらくたっても頭から離れない。ムヴィオラの武井代表も、本作に魅了された理由を「監督の素晴らしい才能に、素晴らしい撮影、素晴らしい音楽や録音。とにかく映画として一級品。だけど何より、まずこの2人に胸を打たれた」と語る。
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ヨウティエを演じるウー・レンリンさんは、実際に甘粛省の農村に暮らすリー監督の叔父だ。
農耕で生きてきた人の身体的特徴や動きを俳優が再現するのは限界がある。ウーさんはもちろん演技の素人だが、このキャスティングは、ヨウティエという役柄にリアリティを持たせることに成功している。一方、難しい身体的・心理的表現を必要とする障がいを持ったクイインを演じるハイ・チンは、実力派のベテラン女優。2人の演技が引き寄せ合い、リアルと巧妙の間の絶妙なポイントで着地。奇跡的なケミストリーを見せている。リー監督の采配の妙と言えるだろう。
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生あるものを大切にし、借りたものは返し、他人を傷つけない。たとえ貧しくとも、教育を受けていなくても、ヨウティエにも積み重ねてきた知恵と彼なりの哲学がある。それは富めるものや要領よく世を渡る者に、決して劣るものではない。
映画やドラマの倍速視聴が普通になり、「タイパ」や「コスパ」が求められる世の中で、彼らとともに生きること、暮らすことの意味を、ゆっくり考えたくなる2時間13分だ。