「孤狼の血」で知られる柚月裕子の同名小説を映画化したヒューマンミステリー『盤上の向日葵』は、坂口健太郎の新たな代表作となるに違いない。
昨年は韓国ドラマに出演しアジアでの人気を拡大する坂口が、第30回釜山国際映画祭オープンシネマ部門で、約4,500席もの屋外巨大スクリーン会場を埋め尽くしてワールドプレミアされた今作で演じたのは、壮絶な過去を背負いながらも将棋界に彗星のごとく現れ、“容疑者”となった異端の天才棋士。
物語は謎の殺人事件から始まり、疑似親子のような将棋の師たちとの運命の出会いと別れ、裏切りと復讐、恨みとリスペクトが交錯する愛憎の関係と、さらには主人公・桂介の過去に隠されたある秘密まで、まるで韓国ドラマのように激しく心揺さぶられ涙してしまう見どころがぎっしり。これまで見たことのない役柄を生きる坂口の別次元の演技を、観客は目の当たりにするはずだ。
韓ドラファンも共鳴する、奥深い人間ドラマ――壮絶な過去を背負った主人公から目が離せない

山中で発見された身元不明の白骨死体。手がかりは、遺体とともに発見された、この世に7組しか現存しない希少で高価な将棋の駒のみ。
容疑者となったのは、将棋界に彗星のごとく現れ、一躍時の人となった天才棋士・上条桂介(坂口健太郎)だった。さらに捜査の過程で、桂介の過去を知る重要人物として、裏社会に生きた賭け将棋の真剣師・東明重慶(渡辺謙)が浮かび上がる――。
2人の出会いは光をもたらしたのか、闇への入り口だったのか。過酷な運命に抗った1人の青年・上条桂介の光と闇を本作は描き出す。
盤上で繰り広げられる勝負の行方はもちろん重要ではあるものの、将棋盤を挟んで向き合った2人の人間の仕草や表情、視線、駒の打ち方などから、2人の間で交わされ微妙に変化していく心情に引き込まれていくのが本作の醍醐味。描かれるのは将棋を媒介にした、奥深く普遍的な人間ドラマだ。
【遺体とともに発見された希少な将棋の駒は、なぜそこにあったのか…】
遺体の胸元に抱くように置かれていた将棋の駒。大きな意味を持つに違いないと確信する事件を追う2人の刑事、石破(佐々木蔵之介)と佐野(高杉真宙)が駒の持ち主を探すうちに行き着いたのは、いまをときめく天才棋士・桂介の壮絶な過去。酒とギャンブルに溺れる父・上条庸一(音尾琢真)のもと、貧困と暴力のどん底を生きてきた孤独な少年の姿だった。

小学生の桂介をその環境から救い出したのは、「君は将棋が好きか?」と桂介の将棋に対する関心と才能を見抜き、導いた元教師の唐沢光一朗(小日向文世)。「将棋が強くなりたいなら.心を強くしないと」。勝つための心構えを厳しく教えたのも唐沢だ。

何より唐沢が桂介に与えたのは、将棋を通じた社会とのつながり。ある日、桂介の現状を案じた唐沢と妻・美子(木村多江)が桂介を温泉に連れ出すが、温泉旅館の休憩室で桂介は見ず知らずの大人たちと将棋を指すことになる。「この子なかなかやるぞ」と、それまで周囲から見て見ぬふりをされてきた桂介の周りに自然と人の輪ができていく。
それだけでなく、同世代で日本一となっていた天才棋士・壬生芳樹(尾上右近)がいる夢のような場所へ自分も行けるのかもしれないと、自分がその場所を目指してもいいのだという希望も与えてくれたのだ。

だが、桂介をプロ棋士を養成する“奨励会”に入れようとした唐沢と父・庸一は激しく対立。幼い桂介は自分に手をあげる最低の親であっても、「お前も行ってしまうのか」と泣き崩れる父を見捨てられなかった。
その後、東大生になるまで将棋から離れていた桂介は、夜の街に響く駒を打つ音に吸い寄せられるように小さな将棋道場の前に立つ。そこで出会ったのが、奇襲で相手を翻弄する“鬼殺しの重慶(ジュウケイ)”の異名を持つ、破天荒な将棋の真剣師・東明だった。

唐沢が将棋を通じて温かな愛情と希望を教えてくれた“父”ならば、賭け将棋を命を張った真剣勝負と言い切り、かつてない高揚感とともに絶望も与える“父”となったのが東明だ。

東明は1局100万円もの現金が飛び交う、ギリギリの賭け将棋の旅へと桂介を連れ出す。最終目的地は死期が迫った東北一の真剣師・兼埼元治(柄本明)との、まさしく命を削るような対局。桂介がこれまで指してきた将棋とはまるで違う別次元の世界だ。
その真剣勝負を見守りながら感動に打ち震える桂介を、最悪の形で裏切ったのも東明だった。

再び将棋から身を引いた桂介が宮田奈津子(土屋太鳳)と出会いで、ようやく向日葵のような“光”にあふれた人生を送り始めた矢先、庸一、そして東明までもが桂介の前に現れる。

桂介にまとわりつく、切ろうとしても切ることのできない“親子”の因縁。ついに桂介の激情が限界に達したとき、ある秘密が明かされる。
すべてを知り闇に身を落としかけた桂介を引き留めたのは、「将棋がないと生きていけない」桂介の本質を見抜いていた、ほかならぬ東明だ。そして東明もまた、桂介にしか委ねられない、ある提案を彼に持ちかける。

そんな不離一体の駒のような2人。だからこそ、桂介自身がこの生き方しかできない、と選択する映画オリジナルのラストシーンがいっそう忘れがたいものとなっている。
俳優・坂口健太郎の新境地!将棋なしでは生きられない主人公の激情を体現

殺人事件の容疑者となった主人公・上条桂介は、天才棋士として将棋界で輝かしい活躍を見せていたが、事件の真相が明らかになるつれ、その壮絶なまでの過去と背負ってきた痛みが浮き彫りになっていく。
そんな桂介を熱演した坂口健太郎は、彼の人生に関わってきた“3人の父”と呼べる存在との関係性から生まれた愛憎の葛藤を見事に演じ切った。
将棋なしでは生きられない桂介にとって、その醍醐味と代償を教えてくれた“3人の父たち”。「演じながら苦しくなることもしんどくなることも多かったけれど、3人(庸一、唐沢、東明)からそれぞれの愛情を感じていました」と坂口自身も語っている。

これまで、韓国ドラマ「愛のあとにくるもの」やNetflixシリーズ「さよならのつづき」などのラブストーリーが国内外で話題を呼び、朝ドラや主演ドラマではひとクセある医師や過去にとらわれた刑事に、映画『余命10年』での等身大の青年から『サイド バイ サイド 隣にいる人』での不思議な能力を抱えた青年、『ヘルドックス』では制御不能の狂気をはらんだ裏社会の人間に扮したこともある。
だが坂口にとって、1本の映画の中でここまでの振り幅を演じるのは初めてではないだろうか。

注目すべきは、坂口が演じる桂介の眼差しや佇まいの劇的な変化だ。
例えば、冒頭の新人王戦に挑む目つきは、クールな鋭利さの中に自信が覗く。学生時代に将棋部を訪れた際には、久しぶりに将棋を指せる純粋な喜びやときめきだけでなく、どこか手応えを感じられない虚しさまでも表現。これまでの作品で見せてきたような柔和で落ち着いた雰囲気に、影を宿していた。
また、実の子のように真心を注いでくれた唐沢の最期には、恩人への感謝とともに、申し訳なさや後ろめたさもその眼差しにすべて込め、涙を見せる。

極めつけは、縁を切ったはずの父・庸一がギャンブルの金に困り執拗にしがみついてくることで、積もり積もった桂介の<恨>があふれ出てしまうシーン。
まさに血・汗・涙にまみれながら、庸一と激しく対峙する姿は脳裏に焼きついて離れない。前半の冷静に将棋を指す桂介と同一人物には思えないほど、全身から激情がほとばしっている。

その一方、母の思い出と重なる向日葵畑で出会った奈津子との日々では、束の間の穏やかな表情も…。だが、渡辺演じる東明には「(将棋を指している)貧乏学生のころが生き生きしていた」と見透かされている。
東明と巡った賭け将棋の旅路は胸が高鳴る興奮の連続で、対局を食い入るように見つめていた桂介。

身勝手な東明に振り回されながらも、将棋に命を賭ける姿には憧憬の念を抱かずにいられなかった。生きがいと共に絶望をつきつけた東明を拒絶することもできず、つのる恨みと敬愛。東明と向かい合い、将棋の駒を打つ音だけが響く静寂の時間を桂介は心底愛していたのだろう。
それほどの複雑な感情が常に内に渦巻いている桂介を、坂口は初共演の渡辺に胸を預けながらも繊細にとらえ続けていた。
東明との魂の対局を経て、まるで憑きものがとれたかのように鋭い眼光で前を向くラストシーンは白眉だ。“将棋なしでは生きられない”、そんな狂気にも似た情念を体現した坂口は、新たなステージへと確かな一歩を踏み出している。
『盤上の向日葵』公式サイト
『盤上の向日葵』は10月31日(金)より全国にて公開。

