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【映画と仕事 vol.27】 キングギドラ、モスラをつくった怪獣造形師・村瀬継蔵が胸にとどめる円谷英二の金言

『ゴジラ』シリーズをはじめ数多くの怪獣映画で特殊造形を担ってきた怪獣造形師・村瀬継蔵が88歳にして監督に初挑戦! これまでの歩みを振り返ると映画『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』への思いを語ってくれた。

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『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』村瀬継蔵総監督
『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』村瀬継蔵総監督 全 8 枚
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アニメーション映画と並んで、日本が世界に誇る映画ジャンルである怪獣映画。時に恐ろしく、時にユーモラスでかわいらしい、個性豊かな怪獣たちが映画の歴史を彩ってきた。

デザイナーによってデザインされた怪獣を、様々な素材を用いて、アイディアと知識を駆使し、監督の望む質感で実際に具現化するスタッフが特殊美術造形――特に怪獣映画において“怪獣造形師”と呼ばれる職人である。そんな怪獣造形師の第一人者であり、『ゴジラ』シリーズにおけるモスラやキングギドラの造形など、数々の怪獣映画、特撮映画に携わってきた村瀬継蔵。今年の秋で89歳を迎える彼が、初めて“総監督”という立場でつくり上げた映画『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』が公開中だ。

半世紀近く前に香港映画『北京原人の逆襲』(1977年)に参加した際に、プロデューサーから依頼されて書き上げたというプロットをベースに、自らの経験や新たな要素も加えて再構築したという。本作への思いを語ってもらうと共に、怪獣造形師としての村瀬さんのこれまでの歩みについて話を聞いた。

「最初は怖いという気持ちしかなかった」


――村瀬さんが特殊美術造形、怪獣造形の世界に足を踏み入れることになったきっかけ、経緯を教えてください。

村瀬:私の兄が多摩美(多摩美術大学)におりまして、私は健康が不安定だったので東京に治しに来たんです。兄の家でブラブラしていたんですけど「お前、遊んでだってしょうがねぇだろ」と言われまして。

故郷の北海道にいた頃に『ゴジラ』(1954年)を見ていたんですが「すごい映画だなぁ。怖いなぁ」と思っていたんです。その話を兄貴にしましたら「俺の知ってる人に『ゴジラ』を作ってる人がいる。俺は学校があるからできないけど、お前、代わりにやってみるか?」と言われたんです。それで(東宝で造形を手掛けていた)利光貞三さん、八木(康栄/勘寿)兄弟のお手伝いに入ることになったんです。

そこでいろんな造りものをやったんですけど、これが非常に難しいんですね。師匠に言われて、金網でものをつくったり、ブリキを切ったりということをしながら造形のこともやるようになって、それから『ゴジラ』シリーズに参加するようになりました。正式に私が参加することになったのは『キングコング対ゴジラ』(1962年)からになります。

私はゴジラを造るなんて「怖いもんを造るんだなぁ…」って思ってね。最初は「面白い映画をつくる」という感覚よりも「怖い」って気持ちしかなかったです(笑)。でも、そうやって造形の世界に弟子として入って、いろんなことをやってきて、利光さんと八木さん、それから開米栄三さんという方たちと一緒にお仕事をさせてもらったら、だんだん「いやぁ、これはおもしろいなぁ」と感じるようになりました。

北海道で農業の仕事をやっているときの経験で、使えることがたくさんあったんですね。ゴジラにしても、金網で下地を作ったり、自動車のタイヤのゴムを焼いて加工したり、いろんな工夫を見てきて「これはおもしろいなぁ」と思いまして、八木さんの下で本格的に造形的なことをやるようになって「これを続けたら、子どもたちにいろんなものを見せられる」とも思いました。

モスラを造ったり、キングギドラを造ったり、それから、私にとって代表作と言えるのが『大怪獣バラン』(1958年)のバランですね。バランは「背中にとがった部分がほしい」と言われて、じゃあ、透明なビニールやのホースを切って使えばいいなと思って、円谷(英二)さんに「こうやったら造れそうです」と言ったら「そりゃおもしろい!」と言ってくれました。「でもそれだと穴が見えちゃうな」と言われて、半透明のビニールで覆ってふたをしました。

次に皮膚をどう造ったらいいかな? と考えた時、周りのスタッフさんが休憩時間に落花生の殻をむいてピーナッツを食べていたんです。それを見て、この殻の表面がすごくおもしろいなぁと思って、試しに粘土で殻を模した原型を作って円谷さんに見せたら「いやぁ、これはおもしろいな。植物が動物の皮膚になるなんて、考えたこともなかったよ」と驚いていました。

あの経験が私の造形の仕事の始まりですね。円谷さんが「君は次から次へと新しいものを考えて生み出してくれる。それをこれからも映画の世界でやっていってほしい」と言ってくださったのを覚えています。

――日本映画界における“特撮の父”ともいわれる円谷英二さんは、どんな方でしたか?

村瀬:円谷さんという方は、自分で原型を造ったり、「こうやるんだ」といった技術的なことを言うことが一切ない人でした。できたものだけを見て「良い」か「悪い」としか言わないんです。それだけじゃ僕たちは、そう簡単に造れないですよね(苦笑)。それを円谷さんに言ったら「いや、それで十分だろ」と言われました。

円谷さんが口を酸っぱくして言っていたのは「上に立つ人間が『これが良い』とか『こうやってやれ』と言ったら、君たちがやる仕事がなくなってしまう」ということ。監督・演出家は、うまく周りを動かして、それによって造形や美術ができあがれば、それでいいんだと。だから本当にできたものだけ見て「これはダメ」、「良い」としか言わない(笑)。でも、僕にとってはそれが力になりました。どんどん新しいものを考えてやるようになったけど、それは円谷さんがいなかったらできなかったと思います。

ゴジラの爪も歯も昔は全て金網で下地を造っていましたが、一度戦うと曲がってきちゃうんですね。それじゃダメだということで「じゃあ、合成樹脂で造ったらどうですか?」と言ったら「合成樹脂って何だ? そんな材料があるのか!」と。そうやって、次から次へとこっちから提案をすると「やってみよう」と受け入れてくださる人でしたね。


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《photo / text:Naoki Kurozu》

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