芝居において「どういう風に見えるか」は意識しない
――新垣さんが以前「槙生ちゃんは無理に表情を作らない」と評していたのが印象に残っています。作品を拝見していても、自然な雰囲気が流れていました。
監督がお芝居の雰囲気に関してナチュラルさを重要視していて、シーンの最後などに「アドリブのアイデアが何かないですか」と聞かれることが結構ありました。長尺でアドリブだったのは餃子のシーンくらいですが、そうしたアプローチが自然な雰囲気に繋がったのかもしれません。
――今回の現場ではモニター確認に行く時間が取れなかったと伺いましたが、完成した本編をご覧になって「こういう表情になったのか」と感じた部分はございましたか?
撮影中に「どういう顔になっているのだろう」と特に気にかけていたのが、お葬式のシーンでした。原作の槙生ちゃんの表情をイメージしつつ取り組みましたが、出来上がったものを見たときに「こういう顔になったのか」とは感じました。

――新垣さんほどのキャリアをお持ちであれば「表情筋をこう動かしたらこういう風に見える」という技術的な計算はある程度成り立っているのではないか? とも思うのですが、いかがでしょう。
お芝居を始めたばかりのときは表情が乏しくて、自分ではこういう風にやっているつもりでもカメラを通すと全然足りない、という経験をしました。カメラの向こう側にいる、ご覧になっている方々に届けるためには自分の感覚よりももっとパーセンテージを上げる必要があり、それでやっとちょうどよくなる――といったことを少しずつ覚えていきました。
ある段階から「これくらい動かせばこんな風に見えるんじゃないか」とはなんとなく想像できるようになりましたが、その感覚が毎度バチッとハマるわけではありません。そのため日々勉強ですが、最近はあまり「どういう風に見えるか」は考えていないかもしれません。

まずは考えないでやってみて、監督が「もっとこういう風に見せたい」があればご指示いただいて、応えられるようにするという意識で取り組んでいます。そういった意味では、先ほどお話しした葬式のシーンも「どういう風に見えているんだろう」とは思いつつも、本番前に原作の槙生ちゃんの顔をイメージしたらその後は考えていませんでした。出来上がったものを見て「こういう表情になったんだな」と後から感じる、という形です。